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戦うことの是非

 

やっと立春ですね。

いかがお過ごしでしょうか。

 

 

 

 

太陽が中心にある「太陽系」の中の地球という星に住んでいる私たち。

良くも悪くもこの「自分でくるくる回りながら太陽の周りも廻っちゃう」という

性質というか概念というか時間軸に拘束されてしまいがちです。

(拘束という表現になってしまう時はネガティブなのか?笑)

 

1日が24時間で1年が365日で、、、という「当たり前のように」に刻まれているリズム。

このリズムの中で私たちは生きて、進化成長を促されています。

 

そう!

「成長しろよー」って発破をかけられてるわけです。

「ちゃんと進化しろよー」ってスパルタなかんじで鼓舞させられてるわけです。

 

そのさじ加減が半端ない。

「結局は、人としてお前はどうなんだ?それでいいのか???」という

“ふりかけ”がいつもパラパラと降ってくる。

うぅぅぅっ…。

 

 

私たちは、一日の中でもそりゃたくさんの「選択」をし、行動するわけだけど

「選択」の前には「ジャッジ/judge」があるわけで

その「ジャッジ/judge」が非常にやっかい。

 

「ジャッジ/judge」のよりどころになるのは

「記憶」というフィールドに層になって溶け合っている「経験値」だったりする。

 

 

 

 

 

上の方から降ってくる“ふりかけ”は

私たちの成長を促すために

容赦なく「経験値」をはるかに超えた「ジャッジ/judge」を求めてきたりします。

 

 

「いやいや、どう考えてもそりゃ違うでしょー」ってなかんじ。

 

 

「追試」としての再体験に遭遇しているときほど

チャレンジャーな心境になるかもしれません。

 

 

 

【どのステージでジャッジ/judge するか?】

 

 

 

ひとつの現象について

自分がどのステージに立ってジャッジ/judgeするか、はとても大切で

これに氣づけると氣づけないとでは

「追試」の難度(自分がどう感じるか?)も大きく差がでてくるような氣がします。

 

 

 

 

何かに終止符を打つために戦う必要があって、

 

カルマを生む戦いを選択することに罪悪感が生まれるなら

 

その罪悪感の背景を深く探る必要があるし、

 

決して同じステージに立たずに

 

「自分のステージ」で、理想のさらに先の

 

想像もつかないような目指す目的地を実現するために戦うことは

 

是非を問うものではなくて

 

価値のある行動なんじゃないかなと思うのです。

 

 

 

その結果がどうであれ

 

あなたの本質が傷つくわけではありません。

 

 

その行動を起こしたときにきっと

地球の概念を超えた「ジャッジ/judge」の片鱗に

氣づくことができるかもしれない。

 

認知できる「経験値」のさらに深いところにあるものに

フォーカスできるかもしれない。

 

 

 

上の方では

「あー、やってるやってる、おきばりやすー」なんて言いながら

またちがう“ふりかけ”をチョイスしてくるでしょう。

 

 

 

私たちはたまったもんじゃないけどね。

仕方ないねー。

自分で選んで生まれてきちゃったんだから。笑

 

心地良くチャレンジャーでいたいものです。

 

 

 

 

今日もご訪問してくださってありがとうございます。

 

感謝と祝福と光を込めて。