懺悔に比例する愛

子供の写真を撮る機会の多いこの時期、

数年前のものを見返すことも

あるのではないでしょうか。

 

そのとき

当時のわが子の愛らしさに驚愕させられ

なぜ

自分はこのとき

この愛くるしさに氣づかなかったのだろう

なぜ

こんなにも笑顔を向けてくれているのに

同じだけの微笑みを

向けてあげられなかったのだろう、と

自分を責めて

「母」としての価値を下げ

行き場のないもどかしさと

こみ上げる涙を味わっている方も

いらっしゃると思うのです。

 

 

 

登録もしていないのに送られてくる

付録つきのダイレクトメールや

“理想の家族像”

“理想の母親像”をつきつけるCMを

否応なしに見せられ

病院に行けば

“おしゃれも仕事も育児も完璧なママ”を特集する女性誌が置かれ

金融機関に行けば

“子供のため”を謳ったローンや保険のカタログがあり

そしていったんネットにつながれば

家事でさえ時給に換算され

著名人の育児にかかわる言葉に飲み込まれ

自分を見失ってしまいます。

 

 

私たちは常に

外部からの情報に振り回され

自分に意識を向けることが

難しい生き物です。

 

加えて

夫との関係性や

親との関係性の中で傷つき

真面目な人ほど

自分以外の存在の要求に応えるべく

理想の母親像を目指し

日々疲弊しているのではないでしょうか。

 

 

子供がいる という

この

自らの時間を犠牲にしても

思い通りにならない生活は

“思考”で生きることが癖になっている私たちには

頑張れば頑張るほど

「子供をかわいいと思えない」

「自分で母親失格の烙印を押す」

など

想像以上につらいものになっているでしょう。

 

 

でも

時間を犠牲にしていること自体が

深い愛の顕れで

子供とのつながりを感じられなくても

子供を愛しいと思えなくても

そこには

確かな絆が結ばれているに違いありません。

 

必死であるほど

自分の感情さえ

置き去りにしてしまうのもなのかもしれません。

 

 

 

少し前の子供の写真を見て

懺悔するほどの思いに駆られるならば

それは

あなたが愛情深い証拠であるのです。

 

堂々と胸を張って

生きていってほしいと思っています。

 

 

 

 

 

今日もご訪問してくださってありがとうございます。

 

 

 

感謝と祝福と光を込めて