暴力を受ける義務


私さえ我慢していれば、この形は保たれる・・・。

 

私さえ我慢していれば、

彼は(母は)(父は)いつかは機嫌が良くなる・・・。

 

彼は(母は)(父は)私にしかネガティブな感情を

表現できないのだろうから、受け止めてあげよう・・・。

 

優しい時もあるのだから

愛されていないわけじゃないだろう・・・。

 

そう。

私さえ我慢していれば、この家族という形は保たれる。

 

 

女性はもともと

あらゆるものを受け入れることができ、

それを見事に変容させることができる器であるといえるでしょう。

 

ただ、そこに自尊心という土台がないと

判断が鈍り、器はぐらつき、

自らをも崩壊させてしまう危険があります。

 

それは五徳に似ていて

どんなに優れた器であっても

しっかりした五徳という支えがないと

激しい火も様々な素材も受け止めることができず

料理を完成させることができないのと同じ。

 

 

 

優しいあなたは

誰かの悲しみをすべて引き受けるつもりかもしれない。

 

 

けれど

肉体的な暴力や言葉の暴力、あらゆる暴力を

まるで義務であるかのように受け入れることは

誰かの悲しみを引き受けていることにはならないと思うのです。

 

 

隙があるからだ、と言う人もいるかもしれない。

 

お互いが悪いからだ、と言う人もいるかもしれない。

 

先祖供養が原因だ、と言う人もいるかもしれない。

 

過去世の因果だ、と言う人もいるかもしれない。

 

そんな言葉さえもあなたは受け入れているかもしれない。

 

 

でも

受け入れるだけでは光は届かないのです。

 

 

誰かを優先させる前に

あなた自身の光に思いを向けてあげてください。

 

 

あなたは

暴力を受ける存在などではない、ということに

氣づいてほしいと思っています。

 

 

 

 

今日もご訪問してくださってありがとうございます。

 

 

 

 

感謝と祝福と光を込めて。