「母」という十字架をおろして

 

アベノミクスでは“女性が輝く日本”が提唱され

女性管理職の割合の数値目標を設定するなど

 いかにも女性の社会参加を促すような流れを

つくりだしているようですが、

有名大手塾講師は

「子供には

お母さんの手料理を食べさせてあげてください」と

熱弁をふるい、

もう

あたしら、どうしたらいいんじゃい!?

 

というか

私たちは突っ込みどころ満載の日本に生きているわけです。

 

別の視点から見てみると

数千年という永いあいだ

いかに

「女性」という存在が枠にはめられ

ある存在から都合のいいように

扱われてきたか ということが

とてもわかりやすい時代になってきていると思います。

 

 

 

母とは〇〇であるべき。

 

 

 

女性とは〇〇であるべき。

 

 

 

私たちは

「母」という十字架に

 

「女性」という十字架に

 

「子宮」という十字架に

 

「性」という十字架に

 

「ママ友」という十字架に

 

「キャラ弁」という十字架に

 

「ダイエット」という十字架に

 

「育児」という十字架に

 

そして

 

「夫婦」

「家族」という十字架に

 

磔(はりつけ)にされ

身動きがとれない状態になっているのでは

ないでしょうか。

 

 

「母」という十字架には

切っても切れない血縁関係の不安を煽り

責任を問われ、

親も子もひとりの人と人、という

とてもシンプルな人間関係を複雑に

がんじがらめにしているような

エネルギーがあるように思います。

 

 

あなたの中にだけしかない光に

目を凝らしたなら

もう

何かをコントロールしたり

何かを我慢しようとしたりする

必要はないのだと

氣がつけるときが近いはずです。

 

 

たくさん背負っている

あなた以外の何者かが定義した十字架をおろして

自由に歩いて行ける。

そんなときは

もうすぐそこにあるはずです。

 

 

 

今日もご訪問してくださって

ありがとうございます。

 

感謝と祝福と光を込めて。